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初代藤﨑三郎助が創業した「えびすや」は、如何にして藤崎百貨店へと成長したのか。

仙台の話題

どうも!仙台つーしんのずんだです!

この前記事にしましたが、藤崎さんは今年で創業200周年を迎えます。

その藤﨑200年の歴史を調べてみると、実に面白い物語があることを知りました。

古着屋の息子祐介(後に三郎助と改名)が創業した木綿商「得可主屋(えびすや)」を、四代目三郎助が今の藤崎の土台をつくり、五代目藤崎三郎助が百貨店へ成長させたという歴史です。

仙台にとってなくてはならない存在である藤崎のその歴史を、私たち仙台市民こそ知るべきではないか、そう思い記事を書くことにしました。 

※この記事では人名については「﨑」、店名・社名については「崎」を用いています。

初代~三代目 豪商藤﨑家の誕生

創業当時の風景

藤崎の創業は、仙台城下大町一丁目で古着商を営んでいた藤﨑治右衛門の五男祐介が分家して名を三郎助に改め、文政二年(1819)、大町二丁目で太物商(木綿商)を開業したことに始まります。

屋号を「得可主屋(えびすや)」と称しました。現在の藤崎の屋上には「西宮えびす神社」がありますが、それはこの創業当初の屋号に由来があるそうです。

また、当時の暖簾(のれん)にはすでに現在の藤崎のマークが染めぬいてありました。 

その後、二代目三郎助は藩許の呉服商となり、嘉永二年(1849)仙台藩の御用金調達を担う融通組となって苗字帯刀を許され、嘉永六年(1853)には更に為替組へと、仙台城下における有力商人となっていきました。

この「融通組」「為替組」というのは、藩の御用達商人のランクのようなもので、「為替組」は藩の最上級の豪商、「融通組」はそれに次ぐ富豪をさします。

また、二代目三郎助は苗字帯刀を許され、藤﨑三郎助を名乗るようになります。

三代目三郎助が襲名したのは文久二年(1862)、その後慶応元年(1865年)には父と同様為替組となります。このように、二代目、三代目は着々と祖業を育てていき、仙台の有力商人としての地位を得ていったのです。

しかしこの時期、仙台における藤崎はあくまで有力商人の一人であり、他店を圧倒していたわけではありません。今の藤崎の基盤を築くまでには、四代目藤﨑三郎助の功績が大きかったと言われます。

藤崎中興の祖 四代目三郎助

四代目三郎助

四代目三郎助が生まれたのは明治元年(1868)、明治維新の激動のさなかでした。

その年には「商法大意」が布達され、藤崎は藩政時代より続いた藩許の呉服太物商の特権をはずされてしまいます。

それは他の店と同じ土俵で戦うことを意味します。明治維新は、藤崎に大きな波として襲ってきたのです。 

明治12年(1879)、藤崎は大町四丁目に支店を開き、15年から本格的な小売を始めます。

藤崎は後に大町五丁目に新館を造りますが、これは明治中期以降の仙台商圏の変遷に敏感に反応したためでした。

そして、店舗を順次移転・拡大させていったことが藤崎にとって大きな転機となったのです。 仙台商圏の変遷は、明治維新によって武士が権力を失ったことに影響します。

藩政時代の東一番丁は、もともと中流階級の武家屋敷が並んでいました。明治になると、旧藩士である山家豊三郎が、旧藩士救済の目的で小店舗を建て、それが商店街になっていきます。

その後、中央からの商人の進出で、多数の芝居小屋や寄席などが出現し、庶民的な娯楽街となっていきました。この間、もともと仙台の中央商店街だった国分町や南町は、銀行・商社街に変わっていき、仙台商圏の中心部が遷移していったのです。

四代目三郎助は、この商圏の変遷に見事に対応できたということです。 

一方、大町一丁目や二丁目、国分町などもともとの中心部にあった商店は、明治中期以降衰退していきました。これにより、藤崎は他店を圧倒する立場を得ることができたのです。

四代目三郎助は、このように先見の明があっただけでなく、いくつもの事業を展開させる東北きっての実業家でもありました。

明治24年(1891)頃には、仙台平の元祖、小松氏が経営していた仙台平工場を買収します。維新後、藩の庇護を失って衰退していた仙台平の復活に取り組んだのです。この事業は大きな成功をおさめ、関東、関西に移出して、仙台市の経済界に大きな貢献を果たします。

仙台平というと、羽生結弦選手が国民栄誉賞の授与式で着ていたことでも話題になりましたが、この四代目三郎助の動きがなければ、また違ったことになっていたかもしれません。

日清戦争の際(1894)には軍の病院に寝具を納品し、1904年の日露戦争の際にも軍の指定業者となります。四代目三郎助は、このようにして地域を代表する店舗としての評価を受けていくのです。

明治30年2月11日開業記念大売り出しの風景

明治30年(1897)には、先ほど説明したように、新しい賑わいの中心となりつつあった大町五丁目(現在の藤崎がある場所)に大店舗を完成させ、211日に移転開店記念大売り出しで華々しく一番丁へデビューしました。

この売出しは大変な反響を呼び、当時の河北新報は、開店初日は「雑踏混雑は筆紙の尽し得るべき所にあらず」の大盛況であり、開店二日目においても「其雑踏前日と異なる所なかりし」状況であったと報じています。

藤崎は今でも2月に創業祭を開催していますが、それは現在の場所に店舗を構えたことに由来しています。 

藤崎の基礎を着実に作り上げてきた四代目三郎助は、さらなる事業展開を図ります。

明治33年(1900)、33歳になった四代目三郎助は欧米視察へと向かいました。神戸から船出、上海、シンガポールなどを経由しパリへ入り万国博を見学、ついでイギリス、ドイツ各地を訪れた後、大西洋を横断してアメリカへ、約7か月の旅をつづけました。

そして帰国後は、フランスのリヨンに絹織物の取引を始めるなど、当時の先端を行く仕事を始めます。 

明治45年(1912)には株式会社化し、「株式会社藤崎呉服店」が誕生します。そしてこの年、市内呉服太物商として第一位の納税額(1,457円)をおさめています。

同業第2位の大内源太右衛門592円、第三位の角田林兵衛396円と比べると、その圧倒的地位が伺えます。また、市内で納税額1,000円を超えるのは、橋本店と藤崎のたった2軒だけでした。

大正8年(1919)には、それまでの土蔵づくりの座売り式店舗であった建物を、2階建ての西洋風木造館に建てかえました。店内もそれまでの「座売り式」から店内を歩道のように歩ける「陳列式(現代の百貨店の様式)」に変わりました。これは当時としては画期的なもので、便所や暖房設備等と合わせて仙台名物となりました。

この大改装により当面の近代化に一応の区切りをつけた四代目三郎助は、大正10年(1921)、2回目の欧米視察へと向かいます。

これは第一次世界大戦後の経済界と砂糖業界の視察を主な目的とし、ニューヨーク、キューバ、ブラジル更にヨーロッパ大陸を一巡しました。これによって、四代目三郎助は自ら経営する砂糖事業に大きな利益を得たと言われています。

四代目三郎助は、他にも南米貿易、インド貿易、ビルマのサルベージ事業、台湾の砂糖事業、満州での事業(石炭の採掘や一般貿易)など実に多くの事業を行い、多くの会社の設立や経営に参加しました。

このように東北を代表する実業家だっただけでなく、四代目三郎助は、仙台の文化の発展にも大きく貢献しています。

明治27年(1895)には仙台で初の私設電話を開設し、明治43年(1910)には宮城県第1号の自動車(ドイツ製2人乗り帆型自動車)を持ちました。四代目三郎助が自動車で藤崎に乗り付けると、大勢の見物客が駆け付けたと言います。

東京四谷にある藤崎邸には、寄宿舎「金剛寮」を設け、仙台の名家の子弟の教育も行いました。

当時の大きな出来事として、仙台駅の誕生があります。当初実は、仙台駅の建設予定地は榴ヶ岡付近でした。これに対し、仙台駅の中心部への誘致運動が起こり、その工事費の補填のための寄付が募られます。

その際、三郎助は寄付者10傑の第2位に当たる550円を寄付しました。現在の仙台の発展を考えると、この出来事は仙台の経済にとって実に大きな意味をもちます。そしてそれは、大町五丁目に店舗を移転した藤崎にとっても大きな意味のある出来事でした。

このように藤崎の基礎をつくり、さらには仙台の文化の第一線を走り、仙台の発展にも大きく貢献した四代目三郎助は、19266月、その生涯を終えたのです。

(次ページへ続く)

zunda

仙台つーしんのライターずんだです。仙台出身、仙台在住で、街歩きが好きで新しくオープンするお店や、街の話題を見つけるのが得意です。

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